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第6話 いっぺいくぼといっぺいどう

2002年05月28日 00:00

第6話 いっぺいくぼといっぺいどう

いっぺいくぼといっぺいどう

南栗原4丁目6番地には「いっぺい窪(くぼ)」と呼ばれる小さな谷があり、豊かな泉がわき出しています。この窪とそこを通り抜ける「巡礼坂(じゅんれいざか)」に関してはまたいずれ書くとして、今回はその地名について考えてみたいと思います。

いっぺい窪 がけから豊かな泉が湧いている

いっぺいとは

いっぺいくぼだけでなく、巡礼坂を上りきった右側(南側)の畑も古くから「いっぺいどう」と呼ばれています。2つの隣り合う「いっぺい」とは何を意味するのでしょうか?
公式の書物にはすべて語源不明となっています。人名ではないかとする本もありますが、いっぺいどうの南隣、NTTの社宅あたりが「にっぺいどう」と呼ばれていたと聞くと謎は深まり、金田一少年をよびたくなります。しかし土地の人はここを「いっぺんどう」とも呼び、一遍上人(いっぺんしょうにん)と何らかの関係があったととも言うのです。

一遍上人と時宗

中学校の歴史の時間でも必ず習う、鎌倉仏教の1つ、時宗(じしゅう)の開祖(かいそ)、あの一遍上人です。ここでちょっと長くなりますが日本史のおさらいを・・

一遍の百年ほど前、鎌倉幕府が開かれる直前に法然(ほうねん)が浄土宗(じょうどしゅう)を、親鸞(しんらん)が浄土真宗(じょうどしんしゅう)を開き「阿弥陀仏を信じ、念仏(ねんぶつ:南無阿弥陀仏のこと)を唱えれば、死後、極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)できる」ととき、センセーションを巻き起こしました。それまでの仏教は特別に修行をした人や金持ちのものだったからです。

さらに鎌倉時代のまっただ中になって一遍上人はこれを上回ることをおっしゃいました。「仏を信じていようがいまいが、善人だろうが悪人だろうが、念仏を唱えさえすればすべての人が救われる」これが時宗です。


踊念仏(おどりねんぶつ)

一遍上人はこの教えを庶民に広めるのに「踊念仏」という方法をとりました。鉦(かね)や鼓(つづみ)をならしながら念仏を唱え、踊り続けるのです。(チンドン屋さんがたたく楽器を思い出していただけるとわかりますか?)そしてヒステリー状態になることを「念仏三昧(ざんまい)の境(きょう)にいる」といいます。

「一遍上人絵伝(えでん)」という絵巻物には京都の町なかに踊屋(おどりや)という全方向から見られるステージを建て、数十人の弟子とともに踊り続ける上人の姿とそのまわりで見物する貴族や庶民の姿が描かれています。ちなみにこのときの踊念仏は48日間続けられたとあります・・

そして再びいっぺいどう

ここまで読めばいっぺいどうは一遍上人の踊屋ではないか・・と思えてきますね。しかもいっぺいどうの北側に残る森はなんと「念仏山(ねんぶつやま)」というのです。

いっぺいどうと念仏山
手前の畑がいっぺいどう。自動車のあたりに巡礼街道が横切り、その奥の森が念仏山

話はとびますが、栃木県にある「下古館(しもふるだて)」遺跡は鎌倉時代の市場(当時は市庭と書いた)だったところですが、その周囲は荒れ地で、そこを通る街道をはさんで両側に市(いち)が広がっていました。そしてその市の中心には阿弥陀堂と踊屋があったことがわかっています。

この話を見つけたとき、まめこぞうはふるえました。まさにいっぺいどうと同じではありませんか!いっぺいどう周辺を見ると、平らな荒れ地であるさがみ野の台地を通り抜ける「巡礼街道」(巡礼坂の道)をはさんで北に阿弥陀堂だったかもしれない念仏山、南に踊屋だったかもしれないいっぺいどうがあるのですから。(わざわざ荒れ地に市を作ったのは、そこが誰の土地でもなく、神仏の領域として世俗の権力が及ばなかったからと考えられています。)


一遍は一人ではない

一遍上人は1289年になくなりましたが、その教えを継いだ弟子の中で藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)(本当の名は清浄光寺:しょうじょうこうじ)と相模原の無量光寺(むりょうこうじ)の住職は代々「一遍上人 他阿(たあ)」を名乗りました。ということは、今までに数え切れないほどの一遍上人が存在していたということです。
その中でも座間周辺では特に無量光寺の五十二代他阿が大活躍しました。この方は江戸時代の中頃に住職を引退し、文政から天保(てんぽう)年間にかけて少なくとも座間市内の四つの石塔に名を残しています。この石塔は「六字名号塔(ろくじみょうごうとう)」といわれますが、他阿が筆で書いた「南無阿弥陀仏」の六文字(これを六字名号という)を石に刻んだものです。

四つの石塔は専念寺、浄土寺、座間小学校北方、そして上栗原の嘉兵衛坂(かへいざか)下にありますが、それらには「一遍上人 五十二代 前他阿(さきのたあ)」と署名があります。前他阿とは引退したあとなので先代の他阿ということですね。この方の活躍が石塔になるくらいですからおそらくもっとさまざまな布教活動をおこなったはずです。いっぺいどうもその活動の名残なのかもしれません。

六字名号塔 上栗原のもの。
右に一遍上人、右下に五十二代、
左下に前他阿とある

しかし結論は

いっぺいどうは時宗と何らかの関係がある建物の跡ではないかと思えてしかたないのですがまったく何の証拠もありません。今後発掘でもされて鉦(かね)が出てきたり文字で証明できる物が見つかればびっくりですが・・

また、時宗関係だったとしても初代の一遍上人と関係があったとは限りません。五十二代の他阿とも限りません。市場だったのかなどとはさらにわかりません。
今回のお話はすべてまめこぞうのひとりごとと思ってください。

だいいち、にっぺいどうの話はどこにいっちゃったの?

まめこぞう

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